旅人の終わり

 前回書いたように、せんべぇは26歳の時に最初に入った会社を辞めました。
 辞めるのはいいけど、なんか目標がないとダメになっちゃう人間なので、とりあえず“仮に”『北海道で宿屋をやる』という目標を立てました。まあ、大げさにいえば人生の岐路、というか“ルビコン川を渡った”わけです。渡った以上さっそく行動開始、ってなるよね、普通。ルビコンを渡ったらローマ(目標)へ一気に進むべきなのは火を見るより明らかなんですが‥‥

 『せっかく会社辞めたんだから、こんな機会もないしちょっと一休み』つーことで、初の海外旅行に行ってしまいました 行き先はドイツ(とその周辺のドイツ語が通じるところ)に決めて、ドイツ語学校に通い、英語でいえば中学1年程度の語学力で、50日ぐらいの予定で出国です。
 
なんでドイツかと言うと、
① 英語が苦手だった。 で、ドイツ語はローマ字読みすれば何とかなりそうだったから
② 歩いて国境線を越えてみたかったので、島国はイヤ。
③ 将来日本は、ヨーロッパ人のように長期の休暇を取ってゆっくり滞在型の旅行をすると思ったので、実際にどんなふうに過ごしているか見てこようと思った。←思いっきりバブルの時代の発想でした

 というわけで、1991年の9月から11月にかけて今までで一番長期の旅行に行ってきました。

ドイツ・オーストリア間の国境検問所のおじさん

 この旅行は最初1週間、友達が休みを合わせて付き合ってくれ、その後はいつものように行き当たりばったりにうろうろしていました。

 国境線マニア?になって、リヒテンシュタイン(下図)を徒歩で横断しました。以後、俺のひそかな自慢に“一国を横断したオトコ”というのがあります でも小さいから、誰でも半日あれば歩けま~す。

 今までの集大成のつもりで、日記をつけたり、同じところに1週間滞在してみたりと、いろいろ楽しんで旅を続けました。が、40日目ぐらいだったでしょうか、このまま旅行を続けても本質的には変わらない気がしてきました。もちろんまだまだ行きたいところはあったし、行けばきっと新しい感動があることは想像できました。でも、上手く説明できないし、あくまでも個人的な感想ですが、自分の中で目的を定めない旅の限界のようなものを感じました。なんていうか、見ているものこそ違え、結局同じことの繰り返しではないか?ということ、かな。

 そんな気分になり、最初の予定通りの期間で帰国しました。“きっとこれが自分の最後の旅だろうなぁ”という気分とともに。

 やっぱり鉄道が好きみたいで、最後はSLの写真を撮っていました


3世代家族 (2010年06月01日 14時51分)
またコメントしました。
ドイツ、行ったことないです・・・。というか、日本から出たことがない・・・。 まだ15・6年しか生きてないから(笑)
鉄道の写真、すばらしいですね!鉄道も、あまり見たことがないです(泣)   もう無くなってしまったけど、銀河鉄道なら一応乗ったことがありますよ!!

せんべぇ(2010年06月01日 23時07分)
おー3世代目さんですね。コメントありがとう
私の初海外旅行は27歳でしたから、まだまだそんなに焦らないでね~(笑)
きっと、どんどん自分の世界が広がっていく、面白い時期がもうすぐ始まるよ。楽しんでどんどんチャレンジしてください。と、46歳のおっさんはうらやましく思うのです。い~な~

どろりん (2010年06月01日 18時23分)
一瞬「旅人の終わり」ならぬ「旅の終わり」という歌なんてふと思い出してみました
とはいえ、某島に行ったこともないわたくしですが

会社の夏休みが10日程ありますので行きたいぞ!!!
なんて思っておりますがまずはフェリー争奪戦に打ち勝たねば、打ち勝った暁には早速予約しますので、しばしお待ちを

せんべぇ(2010年06月01日 23時10分)
だらりんさん、コメントありがとう。
毎年お盆時期のフェリー争奪戦は熾烈なようですね。
上手くチケットを取れることをお祈りしていまーす。
その時はどうぞご利用ください。

サラリーマン

 一年間の休学から戻ったせんべぇは大学の4年生になり、就職活動。ちょうどバブル経済が始まるの時期だったので、最近の方々には申し訳ないぐらい楽に内定がもらえる時代でした。
 そんなわけで凄く気になっていた、『休学して水俣に行ったことは世間的にどうよ?』ということを確かめるために、最初に内定が出そう会社の担当者の方に『住民運動みたいなところに1年ボランティアしました』と言ってみると‥‥
 以後一切の連絡なし うーん、分かりました。以後この話は一切言いますまい という方針で、何とか全国酪農業協同組合連合会という、舌を噛みそうに長いところへもぐりこめました 牛のえさを作ったり、牛乳を作っている農業団体なので、十勝の酪農家さんなら名前ぐらいご存知かなぁ???

 最初の1年間は宮城県の石巻にある飼料工場にいて、2,3年目は千葉の営業所で牛乳・乳製品をスーパーに売る営業をやっていました。その間に応援で営業事務のようなことをやったりと、3年間で製造・営業・事務と会社の主なところを見せてもらいました。ちょうど平成になったころで、まさにバブル。プリンとか売り込んでも、3個100円の安売り用よりもちょっと高い方が売れちゃうという、不思議な時代でした。しかも千葉県という人口が増加しているエリアが担当だったので、俺の営業能力なんか関係なく、対前年比でプラスになってしまうという所にいたもんだから、まったく“のほほん”としたサラリーマンでしたね。

 最初は、このまま平穏に定年まで働くつもりで入社したんだけどなぁ。3年目になると生意気にも、だいたい会社の雰囲気、というより、会社員として生きて行くのはどういうことか、ということを分かった気になって、それより自分で何か始めたくなりました。周りを見回しても学生時代の友人の何人かが転職していて、しかもみんな最初の会社より待遇が良くなっている 『やるなら今かな』という気分で俺もやめちゃいました。

あ~、すいません今回は、文字ばっかりで‥‥

九州・水俣へ

 前日のブログのような経過で、一年間ボランティアの面接試験を受けた私は、北海道に行きたいとアピールしたのに、なぜか九州・水俣の『(財)水俣病センター相思社』でどう?という連絡が。えっ、九州!ちょっと希望していたところと3000㎞ぐらい違うんですけど‥‥ 断ることもできたけど、あまりに方角が違いすぎて、逆に行く気になっちゃいました。

水俣市街とチッソ水俣工場

 10日の研修を受けた後、4月下旬に水俣市へ。派遣先の相思社は、水俣病の患者さんを支援するために作られた団体で、自分はそこに住み込みながら、資料館を作る準備を手伝うということになっていました。とはいっても、水俣病のことなんか何も知らない俺は、役に立つんだろうか?それ以前に『ちょっとそういう“住民運動的”なところって、コワいんですけど』という感じで、正直ビクビクしながら行きました。

生まれて初めて海のそばで暮しました。下図参照

 ここでの一年弱は、今まで、そしてその後も体験したことのない時間でした。ちょっと違いすぎる世界だったので、自分を見失うのが怖くて、最初は少し引いた感じで活動していました。が、それでもたくさんのことが押し寄せて来て、水俣にいる間には自分の中で消化しきれなかったし、いまでも自分の中に、この時に見たり感じたことがゴロンと塊になって残っている感じです。多分一生かかっても消化しきれないでしょう。
 確実に言えることは、もしこの時の体験がなければ、その後脱サラして宿をやろう、なんてことは間違っても思わなかったでしょう。また、この時ボランティアの同期だった人たち(派遣された先はみんな別々ですが)の何人かとは、今でも年賀状のやり取りをしたり、たまに会うこともあります。
 そういう意味で、私にとっては貴重な一年間でした。

 一年間ボランティアについては、去年5月15日のブログで紹介してました。良かったらこちらも読んでね。ちなみに、この企画を主宰していた(社)日本青年奉仕協会は、去年の6月に自己破産してしまいました う~ん、お金にならない事業だったからかなぁ‥‥


がちゃ@東京 (2010年05月29日 22時57分)
そういえば、YHの踊り場に募集のポスターがありましたネェ。
最初のころだけかなぁ。。。
年輪のいかない僕には”参加できないやぁ”
と、思ってみていたのを思い出します(^_^)

しかし、重い内容のところで働いていたんですネェ。。。

せんべぇ(2010年05月30日 00時17分)
あ~、1回だけ『一年間ボランティア募集』のポスター張ったことがありました。良く覚えているねぇ~。
こういう経験をしたからこそ、今の人間的に厚みのあるワタクシができておるのですよ と、えばってみる(笑)
でも、水俣では本当に貴重な体験をさせてもらいました。(マジ)

モラトリアム

 え~、昨日のブログで書いたように、まだ腰が痛いっす。『腰痛ってこんなに不便なんだね』と初めて思い知りました。いや~、人生いくつになっても新しい発見があっておもしれーや
 と、やけっぱちなせんべぇです。

 さて、地味ながら“なんとなく楽しい”学生生活を送ってきたワタクシでしたが、3年生の終わりごろになり、就職という現実が迫ってくると、このまま社会人になっていいのかなぁという気分が忍び寄ってまいりました。そんな時に見つけたのが、『一年間ボランティア募集』という記事。たしか(昔あった)ユースホステル新聞に載っていたんだと思います。
 なんでも、全国各地に行って一年間その土地で暮らしてくる、ということらしい。つーことは、『俺の好きな北海道に行って一年間暮らせるのか』と勝手に拡大解釈。一年休学して参加してみることにしました。

 おいちょっと待て、高3の時に進学を勧めた親に向かって『大学行く意味なんてわかんねー。それより早く社会に出たい』とうそぶいた奴は、どこのどいつだ と間違いなく思ったね、私の両親は。それでも、言い出したら聞かない子供で諦めたのか、許してもらい、さらには休学中の学費まで負担させてしまいました… 
 いや、本当に申し訳ないです。実家に帰ったらいまだに衝突しちゃうから、遠くからメールでこそっと、謝っておきます。

 と、ここまで書いたらまた腰の具合が
 すいません、続きは後日…


56chan (2010年05月26日 23時31分)
かつては「どこで更新手続をしたか」で,月に1度送られてくる「ユースホステル新聞」の中身が違っておりました。

会員になった当初は関東で更新していたのですが,途中から北海道での更新に変わったため,新聞がえらく薄っぺらくなりました。

手元にある最古のものは,平成9年9月11日付。「羽幌遊歩YH」オープンの記事があります(^_^)v

せんべぇ(2010年05月27日 22時45分)
ユースホステル新聞を知っている人は、もうだいぶ“ベテラン”の会員さんだけでしょうね。思えば懐かしいです。

“チャリダー ”せんべぇ

 なんかこのコーナーの拍手をいただいている数、うちにしたら尋常じゃないんですけど 最初はネタ切れの時に書こうと思っていたけど、これはもう楽しみにしてくれている人がいるんだ!という思い込みのもと、“短期集中連載”的に行きますね。

 というわけで、大学時代の塩崎です。
 前回書いたように、酪農実習をさせてもらい、一気にホッカイドウ好きになったせんべぇは、学生時代の思い出に、自転車でゆっくり風を浴びながら北海道を巡る事を計画。当時の就職活動は4年生の春からだったので、3年生の夏休みに、自転車とキャンプ道具一式をもって、青函連絡船で函館に上陸しました。とりあえずの目標は国道5号線で札幌、その後利尻島まで行って利尻山に登るというものでした。とはいっても軟弱なワタクシ、札幌-旭川のように走ってもつまらなそうなところは、あっさり輪行(自転車を分解して電車に積むこと)するし、気分が乗らないと2時間走っただけで、テントを張ってゴロゴロする始末…

 それでも約一か月、北海道のあちこちを回りました。サイクリングを始めて、それまで(電車)の旅と一番違って楽しかったのは、予定通りにいかないこと 鉄道旅行なら、ほとんどの場合時刻表で組んだ通りに行程を進めますが、チャリだと天気が悪かったり、思ったより峠がきつかったり、何より俺のやる気が出なかったり で、なんというかベストの回答がない感じ。人それぞれでしょうが、自分にはこの正解が見えない中で、どこへ行こうか判断するのがとても面白かったです。

 あんまりおもしろかったもんだから、就職が決まった後、もう一回北海道に来てしまいました。そのツーリング中、上利別駅で泊り、ミルクロードを通り、幌鹿峠を越えて然別湖のキャンプ場で泊る途中で、“急な坂だな~”と思いながら糠平温泉街を通り抜けたのが、糠平とせんべぇの出会い?です。
 ちなみにワタクシ、大学には5年間在籍していました というわけで、関西風にいえば5回生の秋に初糠平です。

 つーことで、次は何で5回生になっちゃったか?について書きまーす。

プチ挫折

 さてこのコーナーも4回目。高校3年になったころからのお話です。前回書いたように、国鉄就職を目指していたせんべぇでしたが、当時の国鉄は赤字問題で大変な状況でした。そして7月。“今年から高卒は採用しない”だとーーーー あまりに突然で、どうしたもんでしょ 『国鉄にこの身を一生捧げてやる~』というこっちの都合なんか当然考慮されることもなく、ちょっと茫然自失になりました。
 でも、採用しないって言ってるんだからしょうがなく、じゃあ、国鉄に就職している大学に進学しようということに。川崎市多摩区にある、丘の上の大学に何とか合格でき、毎日片道2時間、しかも登山体験付きの通学が始まりました。

 そして最初の夏休み。以前から興味があった牧場のバイトをしようと北海道へ。道東・浜中にあったユースで紹介され40日の酪農体験をしました。(場所は“だいたい”下図の所)

 “あこがれの”牛を前にカッコつける19歳の俺

 が、しかし、腕力がなくって農家さんに笑われどうしでした…
 こんな俺でも面倒見てくれたK牧場さん、今でも感謝しています。

 この時の経験がきっかけで、趣味の対象が一気に鉄道から北海道へ。『えっ、なにそれ!国鉄に殉じるじゃなかったの』というもっともな突っ込みはご遠慮ください。すいません、あれは若気の至りでした
 

鉄ちゃん時代

 『how to make せんべぇ』、なんか拍手の数が36に43と異常に多いんですが… これは、『もっと書け』という激励なのか?あるいは普通の記事が面白くなくて、拍手してくんないだけなのか? 筆者としては真剣に悩むところ

 というわけで、第3回です。
 旧庄和町から隣の春日部市に引っ越してしばらくした頃から、私の興味の対象が鉄道に移ってゆきました。きっかけは何だったんだろう?気がつけば鉄道ファンやっていました。ちょうどブルートレインがブームになっていたころで、中学校にも鉄道好きの奴が結構いて、日曜日に友達の家で模型を作ったり、一緒に電車に乗りに行くようになりしました。
 高校時代には、一人または友人と泊りがけで出かけるようになり、高1の夏休みには初めてユースに泊り、一緒に行った友人が罰ゲームで踊らされるのを見るという“恐怖の体験”も味わいました。しかしあの頃のユースのノリは、俺にはちょっと厳しかったです

 そして高2の夏休みに、初北海道旅行に!夏休み前から計画を練りに練って、意気揚々と青函連絡船で函館に上陸すると…
 昭和56年8月の水害直後で、列車が全部止まっているではありませんか とりあえず動き始めた鉄道やバスを乗り継ぎ、北広島のいとこの家に転がり込んで、1週間ぐらい居候させていただきました。その後、線路の復旧とともに旅行を再開して、廃線になりそうなローカル線を中心に、道内あちこちの鉄道に乗りまくります。

どっか?の駅←こんな風景を見たくて北海道へ来ました。

 この旅行、予定はぐちゃぐちゃになって、毎日『明日はどうしよう』ということの繰り返しでしたが、これがとても楽しかった~ ますます鉄道好きがヒートアップして、ついには国鉄就職を目指すようになりました。伯父の知り合いに山手線の駅長さんがいたので、お願いして会う場を設けてもらい、コネクションを作るほどの気合。やる気満々で高校3年生になりました。
 続く。


チワワ (2010年05月18日 17時18分)
面白いです~!!「もっと書いて」パチパチ。

マメスロウ見ましたよ。7P全然オッケーです♪

せんべぇ(2010年05月18日 22時21分)
ありがとう!チワワさん。
あなたの応援が、俺の心にさらなるプレッシャーを(笑)
頑張って書きま~す
そうそう、マメスロウの製作者S氏から今日お葉書をいただきました このブログを読んだらしくて、ちょっと恥ずかしい…

情報システム部 (2010年05月18日 21時55分)
ブルートレインブームって結構凄かったらしいですね。
東京駅や上野駅がカメラを持った人で溢れていたとか。

北海道では、今は廃線になったローカル線や青函連絡船が
まだあったのですよね。

こんな時代に旅をしてみたかったなと羨ましく思います。

ところで、当時の士幌線には乗られたのですか?

せんべぇ(2010年05月18日 22時32分)
結構いましたねぇ、鉄道ファン。
夏休みになると、北海道ワイド周遊券(21日間有効)を使って回る人達で、急行八甲田とかめちゃ混みでした。
通路にも座れない時があったけど、今思えばそんなことすらいい思い出です。
完全に1世代若い、システム部長殿にはうらやましいでしょ
ちなみに士幌線は、大学生の頃に一回だけ乗りました。