『民宿 谷崎』ふたたび

 早めの進行で行くはずだったこのコーナー、気がつけば6月末になってもまだ終わらん 他のブログより書くのに時間がかかるので早く終わらせたいなぁ‥‥ ということで、続きです。
 民宿谷崎さんを譲ってもらう計画は頓挫しましたが、せっかく上士幌の人と“細ーーーーい”お繋がりができたので、それからも仕事の休みの時など、『良い情報がないか?』『せんべぇを忘れないでね』という魂胆で役場へお伺いしてました。

 また『ランチョ・エルパソ』の方は働いて3年近くが過ぎ、定番メニューはだいたい作らせてもらえるようにもなりました。自分は民宿をやりたかったので、洋食を極めて行くというよりは、ある程度何でも作れる方が将来の役に立つだろうということで、そろそろ違うお店で勉強しなおす時期に感じておりました。そこで1996年の3月から、音更町木野の海鮮居酒屋『蔵』さん(ハピオの中のお店です)で働くことになりました。

 でもって、和食的なことをまた一から覚え始めた矢先、一度はあきらめかけた『民宿谷崎』の建物を“売ってもいい”というお話が これは、ついに砂漠のノミ(6/6のブログを見てね)にもチャンスが回ってきたのかと、我ながらかなりテンションが上がってまいりました。


aimee-hoku-mahina (2010年07月01日 01時08分)
人生って凄いですね。人の思いって凄いですね。
だって、26の時からですよね?
凄いなぁ…今の私も26だけど…最近色々先を考えたりもしてますが…ほど通し(*/з\*)

せんべぇ(2010年07月01日 23時31分)
ぜんぜん凄くないですよ~。『なんか運良く進んできて、気がつけばえらく遠いとこまで来たね~』って感じです。
確かに最初の会社を辞めた26歳のときには、20年後にこんなことになるとは想像できなかったけど。でも、振り返ってみると20代後半から30代は元気があっていろいろ楽しかったです。aimee-hoku-mahinaさんも、きっとこれからもっと人生楽しくなるよ。

芋づる式

 さっき『かみしほろん』のトップページを見たら、アクセスランキングで1位になってました “不動のTOP”iscatさまがお店休んでお出かけ中の隙を縫って、ちゃっかり追い越してしまったようです。まあこんなこともあるんですね

 さて、帯広で手詰まり感を抱えながら毎日フライパンを振り回していたせんべぇですが、これを見かねたのかエルパソのホールマネージャーO氏が、『上士幌の農家さん紹介してやっか?』とおっしゃってくれました ここでためらう理由は何もないので、『お願いします』ということで、萩ケ岡の酪農家Fさんちに伺ったのが、1995年の秋です。Fさんから民宿やるなら糠平かなぁ?ということで、糠平舘観光ホテルの社長を紹介してもらい、お話をしがてら、なんかいい物件はないかな?と糠平温泉街を歩きまわって見つけたのがコレ↓

おおっ なんか“民宿谷崎”って書いてあるぞ。

 少し(笑)くたびれていましたが、大きさ的には手ごろな感じです。しかも宿屋として作られているので改造の手間も少なくてすみそう。ということで、この建物を狙ってみることにしました。糠平舘の社長から、役場の商工観光課長を紹介してもらい、役場へ行くと課長がいろんな人に声かけてくれて、こんなどこの馬の骨とも分からん奴の話を聞いていただきました。そして、ようやく所有者の親族の方まで辿り着くことができました。まさに芋づるを伝うような展開。どこで切れてもおかしくなかったけど、何とかなったのは、ホント間に立ってくれた皆様のおかげです

 但しこの時は、正式な所有者の方に売る気がないとのことで、残念ながら頓挫してしまいました

手詰まり

 『ランチョ・エルパソ』さんで働き始めて2年ぐらいたったころから、そろそろ開業する場所とかを考え始めました。とは言っても先立つお金はあまりないので、古い建物をリフォームしてやることを想定していました。また場所も最初はかなり限定していましたが、だんだん富良野より東で、釧網本線より西、とかなり大雑把になってきました
 お休みの日に車で走りながら『いいところないかなぁ』と探してはいましたが、なかなか思うような空き家は見つかりません またお金も貯めてはいたけど、このままのペースでは目標額に達するにはおじいさんになってしまう状況 

 宿屋をやろうと決めた時からうすうす感じていたけど、①宿の仕事を覚える。②お金をためる。③いい物件を見つけるという3つのことを同時進行してゆくと、どうしてもある無理が露呈してきた感じでした。 
 現状と開業との間を結ぶ道筋が見えない、というか断絶が大きすぎて、どうしようと考えるんだけど、いい案が浮かぶわけもなく、頭の中で同じところをぐるぐる回っている状態で、この頃は月に一度くらい夜眠れなくなりました それがまた嫌でもないんですね なんていうか、『俺、悩んでいるなぁ』と少し上から他人事で眺めている感じの自分がいて、それが不思議と嬉しかったりして‥‥

 そんなのんきなことでどうすんだって言われそうですが、今振り返ってみてもあのころが一番楽しかったのは事実です。

調理のお勉強

 ホテルのフロントのお仕事を半年ほどやりながら、『次は料理の勉強しなきゃ』と思い、ちまちまお仕事を探していました。ただ、当時の自分はもう29歳。調理のような職人さんの世界に入るには、歳を取りすぎていてなかなか上手く見つかりませんでした。そんなワタクシでもいいよ、と入れてくれたのは、帯広の『ランチョ・エルパソ』。地元の人には自家製ソーセージのレストラン、また(当時の)帯広畜産大学の皆様には、お代わり自由の“焼き飯スペシャル”の店と言ったら分かりやすいかな?

 民宿の時でも料理の下準備とかしていましたが、ちゃんと調理の経験をしたのはこの時が初めてです。一緒に働いてるみんなには、自分より年上の、しかも全然使えない奴が入ってきてアタマ痛かったでしょうねぇ そんでもイチからいろいろ教えてもらったおかげで、何とかユースの食事を作っております。
 また、道内の風習?もいろいろ教えてもらいました。たとえば、冬場、室内が暑くなったのでストーブを止めたら、『それは北海道のやり方じゃねぇ!』と言ってストーブ全開で窓を開けるとか 料理長や当時の先輩の何人かは、それぞれ独立して帯広あたりで自分の店を持っているます。今でもたまに食べにいかせてもらったりして、お付き合いがあるのは、十勝に知り合いがいなかった自分の財産ですね。


家元 (2010年06月14日 18時54分)
ストーブ全開で窓を開ける…今度の冬から真似させて頂きます!!設定温度は28度位で良いですか(笑)

チワワ (2010年06月14日 21時59分)
はい、ストーブガンガン&Tシャツでビール!というのが道民でございます。

はっけみぃ (2010年06月15日 07時46分)
ストーブの前で食べるアイスクリームもオツです。
北海道はアイスクリームの売れ行きが1年中変わらない地域ですからw

せんべぇ (2010年06月15日 23時50分)
家元さま、チワワさま、はっけみぃさま
コメントありがとうございます。
ストーブについては、道内出身の妻と設定温度を巡って、未だに暗闘を繰り広げております
本当は寒さに強いくせに、なんであんなに部屋を暖めなきゃ気が済まないんだ?温度を上げる前に、そこのハンガーにかかっているフリースを着る方が先ではないのか?
とエセ寒冷地仕様のせんべぇは不思議でなりません(笑)

ゆうき (2010年06月21日 22時16分)
ほかにはどんな道内の風習があるんですか?

せんべぇ(2010年06月21日 22時51分)
こっちに来た頃はいろいろ感じた“記憶はある”んですけどねぇ‥
北海道に住んで間もなく20年。なんか馴染んでしまって思い出せませ~ん

ホテル時代

 トマムの民宿には1991年12月から1993年3月までお世話になりました。実際に働いてみて、とりあえず宿泊業が嫌いではないようなので、目標に向けさらに進むことになります。宿の仕事で基本は、接客、調理、経理(経営)だなぁと思い、その中で経理的なことは専門の人に任せた方が効率よさそうと判断して、接客と調理の勉強をする事にしました。
 仕事を探しに帯広の職安に行くと、十勝川温泉の『湯元グランドホテル雨宮館』というところを紹介してくれ、こちらで、1993年4月からフロント係として働くことになりました。

当時の十勝川温泉街

 うちのお馴染さんやスタッフからすると、『え~、寝癖のままでお客さんの前に出るような奴にホテルのフロントが務まるのか』 と驚かれそうですが、大丈夫、さすがに当時はちゃんと寝癖を直してから出て行きました。寝癖OKになったのは、やはり自分の宿だから。まあ、“宿主がこのくらいゆるいと、お客さまも気楽に過ごせるでしょ”と、開き直ってみるワタクシです。

 で肝心の仕事の方はというと、たぶん、自分には向いている仕事ですね。今まで工場や営業、事務、民宿での調理補助と比較的いろんな分野の仕事をしてきたけど、仕事そのものは一番楽しくできました。でも、まあこの仕事で一生喰う予定ではなかったので、調理の勉強ができるところを探して、勤めて半年後の1993年9月までで辞めてしまいました。
 そんなお世話になった雨宮館ですが、去年倒産してしまったですねぇ 十勝川温泉のメインストリートにあるから、閉じたままだと他のお宿さんにもダメージがあって気の毒。誰か買い取って復活するといいですね。と言う前に、ぬかびら温泉も同じ状況でした お金が余っている人は十勝川の前にこっちに投資してくださ~い!


やま (2010年06月11日 08時59分)
ぬかびらYH別館オープンなんてどうですか・・・

せんべぇ(2010年06月12日 00時06分)
 雨宮館、客室数80以上あったと思います。ユースの総客室数8室を埋められない私にはおこがましいかと。
 それに、どうせ別館を作るなら暖かいところが良いなぁ 夏はぬかびら、冬は沖縄なんて、暮らしたら楽しそう(笑)

砂漠のノミ

 ここ数日、いろんな人から『how to makeせんべぇ見ているよ』と言われます。嬉しいです。嬉しいんだけど、結構きついっす。今日も運動会で元糠平郵便局員のO氏に言われました。プレッシャーかけるのは止めてくれ~(笑)

 さて、宿屋をやりたいという目標を立てたのはいいけど、まずは自分が宿泊業に向いているのか確かめようと考えました。そこで家族経営規模の施設で働き口を探して、占冠村トマムにある『旅の宿・たちじゃこう』で働かせていただくことになりました。1991年12月、27歳の頃だから、かれこれ19年前なんですね。
 ここは富良野出身のオーナーさんが脱サラして始めた宿で、冬場はスキーのお客さん、春から秋にかけてはトマムリゾートの建設工事にかかわる業者さんが泊っていました。

 当時はリゾート建設の最後の頃で、アメリカ西部の開拓地を思わせるようなちょっと殺伐とした、でも活気のある時期でした。

 オーナーさんが脱サラ組なので、同じような自分に目をかけてくれ、お金をためる方法や金融機関との付き合い方、仕入れの方法など、本当にいろんなことを教えてもらいました。
 なかでも一番記憶に残っているのは『砂漠のノミ』の話し。

 サハラ砂漠のような何にもないところにもノミが住んでいるんだ。一日中ずっと砂の中に埋まって生きてるけど、運が良いとラクダが通りかかるので、それに飛び移ってラクダの血を吸って生きて行けるんだよ。でも、そんなノミはほんの一握り。ほとんどのノミはラクダと出会わず砂漠の中で死んでしまう。でもね、しおちゃん(と、呼ばれていました)。その万が一ラクダに出会えた時に、しっかりジャンプできるように準備をしなきゃならないんだ。俺らは砂漠のノミみたいなもんだから、準備して、準備して、それでもほとんどの奴はチャンスに巡り合えないけど、だからといって準備しなきゃいざラクダが来たときに飛びつけないぞ。

 これを聞いた時は、全くその通りだと思ったね。『宿屋をやる』と言ってはみたものの、十中八九は無理だろうと思っていたし、たとえ宿を始めたとしても上手くいく確率は10分の1ぐらいかな。という漠然とした不安感はあったけど、同じように考えていて、それでもなお且つ実際に宿をやっている人を目の前で見て、ようやく本気で頑張る気になれました。

 約1年半の間、このトマムでいろんな体験をさせていただいたうえに、開業した時には食器や布団を格安で譲っていただき、さらには“初代ユース号”まで開業祝いとしてプレゼントしてもらいました。ここのオーナーには、本当に足を向けて眠れませ~ん!

 横のドアが壊れていてきちんと締まらなかったり、マフラーに穴があいていて500メートル先からでもその存在が分かるという“楽しい”車でした。


がちゃ@東京 (2010年06月11日 22時42分)
初代・YH号はがんばっていたよねぇ。
エンジン音と振動からは
“なんて乱暴な運転なんだぁ~”
としか思えなかったし。。 

ペアレントさんよりも酷使されていたのでは(^_^)

せんべぇ(2010年06月12日 00時07分)
本当に頑張ってくれました。20万キロ以上走り、最後は-15℃以下になるとエンジンがかからないのであきらめましたが、あいつがあってこそぬかびらYHもここまで来られた気がします。

民宿つくるぞ!計画

 さて会社を辞めた後、旅行なんかして遊んでばかりいたように書いてまいりました。(まあほとんど事実です) が、そんな遊びのヒマを縫って、将来の計画も立てたりしてました。

 それがこの、『民宿つくるぞ!計画』書 1991.9.19作成

 確か、父親のワープロを借りて2時間ばかりで仕上げた記憶があります。10年ぶりぐらいに見て、『あの頃はこんなこと考えていたんだ~』と結構懐かしかったです。
 それによれば、北海道で暮らすのが目的で、民宿は食うために手段。場所は富良野、サホロ、トマムを結んだ地域。開業時期は1998年秋。なんて“夢物語”が羅列されています でも読んでみると、意外にこの計画に近い線で進んでしまいました やっぱ新しいことに挑む時だったので、簡単でいいからたたき台は作っておいた方が良かったみたいで~す。
 そしてこの計画書を親しい友達に配って、アルバイトニュース(フロムAだったかも?)の冬のリゾート特集号から働き口を探し、1991年12月にトマムの民宿で働くことになりました。

 余談ですが、先日実家で私物の処分をしていたら、この時のアルバイト情報誌が出てきました。ぱらぱらめくっていたら、なんと現在の中村屋(当時、富士見観光ホテル)さんの募集もありました。もし富士見さんに来ていたらその後の人生はどうなったんでしょうかねぇ ちょっと興味深い“if”でありました。


家元 (2010年06月04日 09時13分)
スキー客じゃないから、ターゲット外ですね…

せんべぇ(2010年06月04日 23時08分)
画像を読んでくれたんだ~。目に悪いよ。
この右には、“夏は学生”という記述があります。
家元さんはどっちにも当てはまらないねぇ(笑)
というか、学生さんもスキー客も、現在のうちではメインのお客さまになっておりませーん。計画と現実のギャップを感じさせる一例ですな